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Monday, August 14, 2023

軍人だった父は私と母を中国人に売り渡し引き揚げた。残留邦人へ ... - 南日本新聞

高橋達雄さん(右)と妻の頌雲さんが婚約記念に撮った写真=1964年1月撮影(高橋良恵さん提供)

高橋達雄さん(右)と妻の頌雲さんが婚約記念に撮った写真=1964年1月撮影(高橋良恵さん提供)

 生まれ育った中国から、両親の母国の日本に渡って32年。日本人として暮らしてきた高橋達雄さん(81)=鹿児島市桜ケ丘4丁目=は、今も周囲から中国人とみられているのではないかと思うことがある。

 中国東北部の黒竜江省ハルビン市で生まれた。終戦間際の旧ソ連の満州侵攻後、軍人だった父親は幼子と妻を別々の中国人に売り渡し、日本に引き揚げていった。

 3歳だった高橋さんを引き取ったのは、ハルビンから約500キロ離れた遼寧省撫順市の夫妻だった。馬車や電話があり、料理人も抱える裕福な家庭。養父母は優しく、肉親の記憶はだんだん薄れたという。

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 中国では1966年に「文化大革命」が始まり、1000万人を超える青年らが地方に送られた。高橋さんは6年早くその「下放(かほう)」の対象となり、28年間も山村での生活を余儀なくされた。

 共に下放させられた養父は息を引き取る直前、「お前は息子じゃない。日本人だ」と告げた。「ずっと中国人だと思っていた。とてもショックだった」と振り返る。自身が日本人だったことも下放の理由だった。

 山村で暮らす中、中国人と結婚。4人の子に恵まれた。一方、母国への思いも募り、78年から日本政府に帰国を求めて手紙を書き続けた。

 実父に売られた実母とは80年代に、撫順から千キロ近く離れた河北省で再会できた。「父に似た私に実母はすぐ気付いた。抱き合って2人で号泣した」

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 高橋さんは91年、一家6人での永住帰国が実現し、鹿児島市の県営住宅に入った。ただ、48歳の身で新たな言葉を覚えるのは難しかった。職業訓練学校にも通ったが、結局就職できなかった。

 中国残留邦人への国の支援策は乏しく、生活保護に頼るケースが大半だった。鹿児島の残留邦人らは2003年、「普通の日本人として人間らしく生活する権利を奪われている」と、国に損害賠償を求める集団訴訟を起こした。全国でも相次ぎ、福田康夫首相(当時)は07年に謝罪。政府は翌年、満額の国民年金と生活支援給付金の支給を始めた。

 高橋さんは妻の頌雲さん(75)と暮らし、孫にも囲まれて幸せな生活を送るが、日本語が不自由で1人では病院にも行けない。「戦争の影響を受け続ける『生き証人』だと思う」。近くに住む次女の良恵さん(53)は話す。

 高橋さんの中国名は高承達。養父がくれたこの名前から、日本名に「高」と「達」を付けた。政治の摩擦が続く日本と中国。名字の「橋」には、二つの祖国の架け橋でありたいという願いが込められている。

■中国残留邦人 満州国に国策として約27万人の日本人が移住したとされる。1945年8月9日に旧ソ連が参戦、多くが中国に残された。72年の日中国交正常化後、肉親捜しと帰国が本格化。政府は81年、残留邦人の訪日調査を開始。厚生労働省によると、今年6月末現在、国費での永住帰国は6724人、家族を含め2万911人。自費帰国者は数倍いるとされる。鹿児島県内で生活費などの支給を受ける帰国者は3月末時点で27人。

(連載「果てぬ涙 かごしま終戦78年」より)

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