高橋達雄さん(右)と妻の頌雲さんが婚約記念に撮った写真=1964年1月撮影(高橋良恵さん提供)
中国東北部の黒竜江省ハルビン市で生まれた。終戦間際の旧ソ連の満州侵攻後、軍人だった父親は幼子と妻を別々の中国人に売り渡し、日本に引き揚げていった。
3歳だった高橋さんを引き取ったのは、ハルビンから約500キロ離れた遼寧省撫順市の夫妻だった。馬車や電話があり、料理人も抱える裕福な家庭。養父母は優しく、肉親の記憶はだんだん薄れたという。
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中国では1966年に「文化大革命」が始まり、1000万人を超える青年らが地方に送られた。高橋さんは6年早くその「下放(かほう)」の対象となり、28年間も山村での生活を余儀なくされた。
共に下放させられた養父は息を引き取る直前、「お前は息子じゃない。日本人だ」と告げた。「ずっと中国人だと思っていた。とてもショックだった」と振り返る。自身が日本人だったことも下放の理由だった。
山村で暮らす中、中国人と結婚。4人の子に恵まれた。一方、母国への思いも募り、78年から日本政府に帰国を求めて手紙を書き続けた。
実父に売られた実母とは80年代に、撫順から千キロ近く離れた河北省で再会できた。「父に似た私に実母はすぐ気付いた。抱き合って2人で号泣した」
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高橋さんは91年、一家6人での永住帰国が実現し、鹿児島市の県営住宅に入った。ただ、48歳の身で新たな言葉を覚えるのは難しかった。職業訓練学校にも通ったが、結局就職できなかった。
中国残留邦人への国の支援策は乏しく、生活保護に頼るケースが大半だった。鹿児島の残留邦人らは2003年、「普通の日本人として人間らしく生活する権利を奪われている」と、国に損害賠償を求める集団訴訟を起こした。全国でも相次ぎ、福田康夫首相(当時)は07年に謝罪。政府は翌年、満額の国民年金と生活支援給付金の支給を始めた。
高橋さんは妻の頌雲さん(75)と暮らし、孫にも囲まれて幸せな生活を送るが、日本語が不自由で1人では病院にも行けない。「戦争の影響を受け続ける『生き証人』だと思う」。近くに住む次女の良恵さん(53)は話す。
高橋さんの中国名は高承達。養父がくれたこの名前から、日本名に「高」と「達」を付けた。政治の摩擦が続く日本と中国。名字の「橋」には、二つの祖国の架け橋でありたいという願いが込められている。
■中国残留邦人 満州国に国策として約27万人の日本人が移住したとされる。1945年8月9日に旧ソ連が参戦、多くが中国に残された。72年の日中国交正常化後、肉親捜しと帰国が本格化。政府は81年、残留邦人の訪日調査を開始。厚生労働省によると、今年6月末現在、国費での永住帰国は6724人、家族を含め2万911人。自費帰国者は数倍いるとされる。鹿児島県内で生活費などの支給を受ける帰国者は3月末時点で27人。
(連載「果てぬ涙 かごしま終戦78年」より)
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