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Saturday, December 10, 2022

<土曜訪問>余計なことはしない 老いても普通に「ただ生きる」を実践 勢古浩爾さん(エッセイスト):東京新聞 TOKYO Web - 東京新聞

 「定年後も働こう」「地域とつながる」「いつまでも若々しく」。書店にはシニア向けに生き方を指南する人気本が並んでいる。「世界一周旅行」や「ゼロから学ぶ英語」というのもある。そんな中で、勢古浩爾さん(75)の最新刊のタイトルが異彩を放っている。『ただ生きる』(夕日新書)。帯でも、余計なことはしない、と言い切っている。

 「私にとっての老いの楽しみとは、何ということのない、ごく一般的な普通の生活のことです」ときっぱりの勢古さん。「生きる意味や意義も、生きがいや目的も、とくに年をとってからは必要ありませんよ」

 勢古さんの一日はこんな感じだ。昼近くに起床して食事を取る。リュックを背負って帽子を被(かぶ)り、自転車で近所の図書館か喫茶店へ。歩いて行く日もある。半日外で過ごした後、きれいな夕日に出合えたらデジカメでパチリ。海外旅行は面倒なので行かないし、友達ともほとんど会わない。

 「そんな気の抜けたビールのような生活をして何が面白い、という人がいるかもしれませんが、私は全然気にしません。ただ生きているだけで十分です」

 といっても、無為無気力な生き方ではなく、ほんの少しの前向きな気持ちが伴っている。まさに自分サイズの意欲と言えるだろう。「余計なことをしない。余計なことは欲しない。そして何が余計かは自分の判断」。これが「ただ生きる」の極意だ。

 世の中は無意味なもの、余計なものであふれていると感じている。文明は利器を作り出した半面、不要なもの、過剰なものも作り出した。要不要の線引きがあいまいになっている。勢古さんは連絡用にパソコンで電子メールを使うし、映像作品を鑑賞するためにユーチューブも見ているが、「携帯電話は全く不要」。スマートフォンはもちろん、ガラケーも持たない。

 「夢を持つのに遅すぎることはない、と金言のようにいわれるが、それは本当に自分の夢なのだろうか、と問うことも必要ではないでしょうか。世間の判断、世間の価値ではないだろうか、と」

 一九四七年生まれの団塊世代。洋書輸入会社に勤務しながら執筆活動を続けた。評論や評伝、人生論など数多く手掛けたが、いつも念頭にあったのは、現代を生きる市井の人間の心の芯に言葉を届けることだ。

 転機は二十代前半、友人に勧められて読んだ思想家・吉本隆明だった。<結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ(中略)そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ>(『敗北の構造』)

 「『世間の人は、日常や普通の生活をばかにしすぎている』ということを言っていた。『日常には修羅もすべてある』と。そして『普通に生きている人間が一番偉いんだ』と断言していました」

 吉本の言葉に触れ、目を見開かされた勢古さん。以来、とっぴなこと、特殊で派手なことにはいっさい興味がなくなった。何をするにしても「普通」がいい。自分の生きるベースができたという。

 一年前に出したエッセー『自分がおじいさんになるということ』で、「元素」という言葉を、独自の意味を込めて使った。自然や言語、文化などそれぞれの分野の、善良な要素を指す。「自然元素」で言えば、人間なら誰しも美しさや心地よさを覚える「夕日」「花」「雨」「川」である。「当然、こんな理想とは正反対の現実があり、こんな考えは軟弱すぎる思想だと批判されることでしょう。しかし、あえてそれを求め、そういう世界で生きていきたい」

 老いとは、自分にとって気持ちのいい元素だけで生きていける時期と教えてくれた勢古さん。気心の知れた人とだけ付き合い、好きな趣味だけをし、美しい自然や言葉を愛(め)でる。現役でいる時は、何かとしがらみやら義務やらで無理だけれど、自分もいつかは、元素を集めて「ただ生きて」みたい。老いるのが待ち遠しくなってきた。 (栗原淳)

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