それでも、地元を諦めない人たちがいた
もうすぐ東日本大震災の発生日、3月11日を迎えます。福島県相馬市に住む男性は、津波によって故郷を一度失いました。「それでも、海の匂いがする街に帰りたい」。そんな思いから、漁師町をよみがえらせようと、住民のリーダーとして力を尽くしてきました。これまであまり語られなかった、当地に住む「普通の人」の10年間。地元への愛情を込めた詩が、やがて歌となり、全国へと羽ばたくまでの日々について、男性の手記「凡人の十年間」を基に振り返ります。(withnews編集部・神戸郁人)
原発事故に動かされた感情を詩に
相馬市沿岸部・原釜地区で津波に遭い、自宅を失った理容師・立谷幸一さん(67)。沿岸部住宅の高台移転運動など、地域再建の中心的な役割を担ってきました。その過程で、一つの「夢」を抱きます。「作詞」です。
きっかけは、2011年に起きた、福島第一原子力発電所の事故でした。故郷から50キロほどの距離にある施設から、放射性物質が噴き出したことで、多くの人々が土地を追われている――。そんな現実に、感情を揺さぶられたのです。
「この静かな街を乱すのは誰ですか」「誰も責任を取ろうとはしない。皆誰かのせいにする」。2014年10月、立谷さんは一編の詩をつづります。子や孫たちを、苦しませたくはない。そんな思いを込めた作品でした。
「この詩に曲を添えられないか」。アイデアが浮かぶとすぐ、知人で埼玉県在住の僧侶に相談しました。すると、ある男性シンガーソングライターを紹介されます。約4カ月後、「うつくしま福島」というタイトル入りのCDが、立谷さんのもとに届きました。
楽曲を聴いた立谷さんは「曲が付くと、詩が生きてくる」。誰かに感動を伝えたくて、住民有志と立ち上げた、行政に被災者からの陳情活動などを行う団体「東部再起の会」の仲間に配って歩きました。
アーティストと「祈りの歌」を作る
作詞への情熱は、時が経つごとに燃え上がりました。津波犠牲者の慰霊目的で、2011年から地元の漁港で催してきた、灯籠(とうろう)流しの主題歌を作ろうと思い立ったのです。
話を持ちかけたのは、市内の仮設住宅を毎月訪れていた音楽デュオ・MCS(ミクス)です。首都圏で活動し、聴衆から被災者支援のための寄付金を募集。震災翌年以降、相馬に通い、地元の人々にお金を手渡すとともに、ミニライブを開いてきました。
ボーカルのRiOさん・ギターの龍也さんは、2014年の灯籠流しにゲスト出演した経緯があります。このことがきっかけで、立谷さんもMCSのライブを見るため、仮設住宅へと足を運ぶように。いつしか、会うたびにお酒を酌み交わす仲になりました。
「5回目の灯籠流しに間に合うよう、私が詩を書くから」。そう願い出ると、二人は快諾してくれました。何度もデモテープを作ってもらい、立谷さんは被災体験を思い出しつつ、歌詞を修正していきます。そして約1年後の2015年7月、一つの作品に仕上がりました。
「貴方(あなた)の好きな海の匂いがする場所に 貴方の面影求めて逢(あ)いに来ました」
翌月末の灯籠流しで、RiOさんたちは新曲「灯篭(ろう)の灯(あか)りに鎮魂の想(おも)い」を歌い上げました。
会場に響く、アコースティックギターの静かな音色と、優しい歌声。集まった人々は、目をつむり聴き入ったり、静かに手を合わせ涙したり。これ以降、灯籠流しやMCSのライブで、必ず披露される定番曲となりました。
立谷さんは、津波で被災した住宅の移転地に建つ、稲荷(いなり)神社のテーマソングも手掛けます。住民を受け入れてくれた感謝の念を示したい、と考えたのです。MCSと共同制作した曲には、相馬弁で「お稲荷さん」を意味する「おいなっさん」と名付けました。
そして2016年8月、灯籠流しの主題歌とともにCD収録され、全国に流通しました。現在も、各地のラジオ番組で放送されるなど、相馬の人々の思いの象徴として親しまれています。
自然に翻弄されても、故郷を選んだ
10年をかけて、相馬の街そのものも変化し続けました。
2015年4月には、原釜地区の海沿いに、津波犠牲者を悼む「相馬市伝承鎮魂祈念館」が完成。立谷さんたちが市と一年がかりで製作し、震災前の街並みを再現したジオラマが、館内に飾られています。
周辺に目を移せば、遊具付きの公園が整備され、子どもたちの声が響いています。主力産業の漁業や、名物であるのり作りも再開し、地域はにぎわいを取り戻し始めました。
しかし10年前の3月11日、海原に飲み込まれた命が戻ってくることは、決してありません。そして、いつか再び、市全体が大きな災害に見舞われる可能性も、ゼロではないのです。
昨年夏に実施予定だった灯籠流しは、新型コロナウイルスの影響で延期を余儀なくされました。さらに今年2月13日には、最大震度6弱の揺れが発生。市内で土砂崩れが発生するなどし、地元民は再び地震の脅威にさらされました。
そうやって自然に翻弄(ほんろう)されながらも、潮の香りが漂う故郷に残ることを、立谷さんたちは選びました。これからも、亡き人々の不在を引き受けながら、この土地で生きていくのです。
立谷さんの手記は、次のように結ばれています。
「人との出会いの大切さ、何も考えず動く大切さ、動けば色んな人と出会い、色んなことが勉強になります。素敵な十年間を過ごせたことに感謝です」
「人生は一度、人として大事な人生を静かに生きたいものです」
「馬鹿親父にだって、できることがある」
私が立谷さんのことを知ったのは、2015年。当時、記者として働いていた山形で、なじみの飲食店を通じて出会いました。
震災や原発事故は、どのように地域住民の生活を変えたのか。私はそんな問題意識を強く抱いていました。そのため、福島県出身の自主避難者の暮らしぶりや、津波が襲来した土地の再建状況などについて、継続的に取材していたのです。
それまで関わってきた、数多いる被災者の方々の中で、立谷さんは異質でした。
人々を巻き込み、地元を盛り上げる取り組みを進める、凄まじい行動力。一度杯を交わすや、見ず知らずの私にも、「十八番歌ってけろは!」と、カラオケのマイクを渡してくれる屈託のなさ。人間的魅力のとりこになり、何度も相馬に通い、来し方についてうかがいました。
もっとも、これまでの旅路が、常に順風満帆だったわけではありません。住宅の高台移転や、灯籠流しの実施を巡り、周囲と鋭く対立することもたびたびだったそうです。それでもなお、立谷さんは信念を曲げませんでした。
「なぜ、そこまでするんですか」。以前、そう尋ねたことがあります。すると、こんな答えが返ってきたのです。
「俺はどうしようもないほどの凡人だ。でもよ、馬鹿親父にだって、できることがあるって示したい。人生で数え切れないくらい、誰かに助けられてきたからさ」
旧友たちとの宴会で、立谷さんが必ず披露する曲があります。地元の情景を歌った「ふるさと相馬」。歌声は、やがて合唱となり、気付けばみんなが肩を組んでいる。その場に何度も同席させてもらううち、故郷を諦めない理由について、教わった気がしました。
あの日から10年。相馬は、確実に前に進んでいます。ただ、災害によって失われた命は、二度と返りません。街の形も、護岸工事などを経て、震災前とは大きく変わってしまいました。その現実を、「復興」という一語で表現することには、強いためらいを覚えます。
しかし立谷さんを始め、街に住まう方々の努力があってこそ、相馬は再生を遂げました。手記「凡人の十年間」には、その記憶が凝縮されているのです。
地域を愛し続けた、一人ひとりの情熱に敬意を表しながら、これからも関わり続けていきたいと思います。
「これから忙しくなるからな…」震災直後、写真館の経験をマンガに
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