いま私たちは、ロシアによるウクライナ侵攻で、ごく普通の街が攻撃を受ける光景を目にしています。78年前の7月10日未明、アメリカ軍のB29によって空襲を受けた仙台の街も、市民が日常を過ごしていた街・風景が、焼けてしまいました。
当時の仙台で、学び、遊び、未来を描いていた子どもたちはどうなったのだろうと、取材を始めました。
【公立の小学生だけで 死者93人 被災者7000人以上】
(空襲直後の芭蕉の辻付近 仙台市戦災復興記念館 所蔵)
当時の仙台市中心部が焦土と化した仙台空襲。およそ1300人が亡くなりました。
市民グループの仙台・空襲研究会が仙台市の資料などを調べてまとめた本には、
国民学校(いまの公立小学校)の被害状況が載っています。
(『翼下の記憶 1945年仙台空襲と艦載機空襲』 仙台・空襲研究会 より)
空襲の約20日後、昭和20年8月1日時点のまとめですから、いわば「速報値」と言えるでしょう。それでも、亡くなった児童は93人。家を失うなど被災をした児童は、約7000人に上ります。
とくに、被害の大きかった地域にあった学校では、学区内の児童ほぼすべてが被災したとされています。
(仙台市戦災復興記念館 所蔵)
この地図で赤く塗られているエリアは、ほぼすべての建物が焼失しました。このあたりには、国民学校のほかにも、私立学校や今の中学校・高校にあたる上級学校計20校と大学が1校ありました。そこに通う児童や生徒、それに未就学児も含めると、被災した子どもはもっと多かったとみられます。
【住まいは防空壕 妹の世話で学校に行けなくなった】
被害が大きかった地区の1つ・肴町(さかなまち)、今の国分町(こくぶんちょう)の南側に住んでいた男性に、話を聞くことができました。庄司誠さん(しょうじ・まこと 90)。
当時13歳で、昭和20年春に立町(たちまち)国民学校を卒業。高等小学校に入学したばかりでした。当時は、家の近所にあった旅館の周辺で、かくれんぼやメンコ、陣取りゲームをしてよく遊んだそうです。
仙台空襲の時は、母親と一緒に広瀬川沿いに作られた防空ごうに逃げ込み、難を逃れましたが、
朝、外に出たときに見た光景が忘れられないと言います。
「広瀬川を覗いたら何人も浮かんでいて、遠くを見たら木を組んで火をつけていた。4,5歳くらいの女の子、真っ黒こげになってまだくすぶっていた。辺り一面すっかり灰になっていて、立町小学校(国民学校)のあたりから仙台駅の方まで一面というくらい平らになり、煙がぼうぼうとなっていた。どうして一晩のうちに灰になったのかって不思議に思った」
(仙台市戦災復興記念館 所蔵)
庄司さんが住んでいたあたりの、空襲直後の写真です。
家は全焼。親しんだ街並みも消えてしまいました。
なんとか生き延びられたとはいえ、暮らしは一変。
家や生活の場を失った庄司さんと家族は、戦後の1年間、広瀬川沿いにあった防空ごうで暮らすことになりました。
(防空ごうでの生活を描いた 庄司さんのイラスト)
父親は前年に亡くなっており、母親と、庄司さん、3人の妹(当時、小学生2人と4歳)の5人家族。
日中、母親は小学校の校務員として働く間、庄司さんが4歳の妹の面倒を見なければなりません。広瀬川の河原で薪にする木を拾い集め、食べられる野草を探し、煮炊きして妹に与える。それだけで1日が終わったと言います。学校に行く暇はなく、高等小学校は中退しました。
その後、母親や家計を支えるために、学校の校務員や市の施設などで働き続けた庄司さん。
戦後の子どもたちの成長を見守ってきた一方、自身の学びの機会は取り戻せませんでした。
庄司さんは、仙台市の戦災復興記念館に展示されている、戦後の五橋(いつつばし)中学校の生徒が合唱している写真を見ながら、こう話しました。
「歌が好きなので、一緒に歌いたいなと言う気持ちはありました」
私が、「もし戦争が無かったら、学び続けたかったのではないですか?」と聞くと、
「当時、勉強をした記憶があまりないんです。空襲が無かったら、学校で勉強して、今より倍の知識が得られたんじゃないかなと感じます。でも、やっぱり働いて母親を助けなければいけないというのが頭にありました。女手一つで子どもを養うって大変なことですから」と庄司さんは穏やかに話しました。
その後、「でも…」と言葉を継ぎ「空襲が無かったら、自分も生徒として楽しい生活があったのかもと、働きながら思うことはありました」と、ぽつりとつぶやきました。
【被害を受けた学校 当時の記憶 受け継ぐ】
78年前の空襲で大きな被害を受けた学校でも、当時のいたみを忘れまいとしています。
空襲で校舎が全焼し、ほぼ全児童が被災したとされる仙台市立東二番丁(ひがしにばんちょう)小学校の校長室には、平和を祈る観音像が代々受け継がれています(上写真)。
1体1体に、空襲で亡くなった児童、計23人の名前が刻まれています。
被害にあった児童も一緒に卒業させてあげたかったと、保護者たちが寄贈したそうです。
7月7日に行われた開校150年の記念式典では、児童たちが学校の歴史を調べ、発表しました。
そのなかでは、仙台空襲で当時の児童のなかに犠牲者がいたこと。
校舎や街がなくなってしまったことも語られていました。
いま自分たちが親しんでいるこの学校で起きた事実を学んだ児童たち。
「戦争があったことは学んだけれど、この仙台の街でそんなことがあったなんて、調べてみるまで分からなかった」
「いまもウクライナとロシアが戦争をしている。世界が平和になってほしい」
と話していました。
取材の最後、庄司さんが教えてくれた言葉がとても印象に残っています。
「戦争が終わったとき、私はうれしかった。よけいな心配しないで普通に生活できるっていうのが一番の幸せだと思います。だから、戦争は無い方がいい。そういう世界が一番いい」
災害や事件もそうですが、戦争でも「何人が亡くなった」と、犠牲者の数が報じられます。
しかし、生き延びることができたとしても、生活やその後の人生を一変させてしまいます。戦争によって、親も兄弟も失って戦争孤児となった方も少なくありませんでした。
今回、庄司さんのお話を聞いて、苦しむ方は犠牲者の何倍もいる。自戒を込めて心に刻みました。そして改めて、普通の市民が狙われ、日常が奪われることの理不尽さも感じました。
仙台市青葉区の戦災復興記念館には、仙台空襲に関する多くの資料が展示されています。
いま、私たちが住むこの街が戦いの舞台となり、私たちや家族や子どもが狙われたら…。
この夏、お子さんと一緒に学び、考えてみませんか?
『仙台市戦災復興記念館』 仙台市青葉区大町2-12-1 022-263-6931
からの記事と詳細 ( 仙台空襲 ... 学びや遊び 子どもの日常も奪われた 岩野吉樹アナが取材 - nhk.or.jp )
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