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Monday, July 11, 2022

米紙が振り返る安倍晋三の功罪 日本を「普通の軍事大国」にする悲願は叶えられず | NYタイムズが掲載した追悼記事 - courrier.jp

Photo by Erin Schaff/The New York Times

Photo by Erin Schaff/The New York Times

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Text by Motoko Rich

米紙「ニューヨーク・タイムズ」は安倍元首相の殺害を受けて長い追悼記事を掲載した。その経済政策や外交への評価のほか、とりわけ平和憲法の改正を目指したことに注目している。


自衛隊の「足かせ」を外す


安倍晋三は、日本の戦時中の亡霊を打ち負かすことを政治使命としたが、日本を「普通の」軍事大国に戻すという最終目標には及ばなかった。7月8日、日本の憲政史上最も長く首相を務めた安倍は暗殺された。67歳だった。

安倍は、戦犯容疑をかけられた祖父を含む厳格なナショナリスト政治家一族の御曹司であり、そんな彼には2つの大きな目標があった。戦後、平和主義を貫いてきた日本の軍隊の足かせを外すこと、そして「アベノミクス」で経済を立て直すことだ。

しかし、長い在任期間中、彼はそのいずれも部分的にしか達成できなかった。


2015年、安倍は国民や野党から反対の声が上がるなか、自衛隊が海外で同盟国軍と戦闘任務にあたることを認める法案を押し通した。だが日本国憲法の戦争放棄条項を改正するという長年の夢は果たせなかった。安倍は結局、第二次世界大戦の惨禍を繰り返したくない日本国民の心を動かすことができなかったのだ。

経済政策においては、低金利、財政出動、規制緩和というショック療法を行った。その結果、首相就任からほどなくして景気は上向き、安倍の国際的な知名度も高まった。女性の社会進出を促す「ウィメノミクス」も経済政策で重視されたが、管理職や政府内における女性比率の大幅な引き上げなどは実現しなかった。

国際舞台では、安倍はドナルド・トランプ前米大統領と一貫して緊密な関係を維持する数少ない世界の指導者の一人であった。

その一方、トランプ政権が環太平洋経済連携協定(TPP)から離脱した後も、安倍は他の国々を引き留め、アメリカ抜きで2018年のTPP発足にこぎ着けた。
対ロシアでは、ウラジーミル・プーチン大統領と何十回と会談し、北方領土問題の交渉に努めた。それは安倍の父親・晋太郎が長きにわたり解決を試みて失敗した領土問題であり、息子もまた解決できずに終わった。

このように安倍は世界で外交や貿易関係の強化に努める一方で、国内では国家主義的な考え方を見失うことはなかった。

2012年の首相就任から1年後、安倍は第二次世界大戦の戦犯も祀られている靖国神社を参拝した。彼の在任中、日本と韓国は歴史との向き合い方をめぐり対立し、日韓関係は戦後最悪にまで冷え込んだ。

2015年に日本の首相として初めてアメリカ議会で演説した安倍は、過去の重みを認めながらも、第二次大戦中に日本が行ったことについて謝罪することは避けた。


戦犯容疑をかけられた祖父と日本国憲法


安倍晋三は1954年9月21日、東京で安倍晋太郎と洋子のあいだに生まれた。母親は岸信介元首相の娘である。

岸は戦後、日本を占領していたアメリカから戦犯容疑をかけられたが、結局、戦争犯罪法廷にかけられることなく釈放された。1957年から1960年まで首相を務め、占領下に制定された日本国憲法に激しく反対した人物でもある。半世紀後、今度は孫がその憲法の改正を目指したというわけだ。

安倍の父親・晋太郎も政界入りし、外務大臣を務め、戦後日本の政権を担ってきた自民党の有力政治家であった。こうした背景から、安倍晋三が父や祖父の後を継いで政界入りすることに、疑いの余地はほとんどなかった。

安倍は2006年に自民党総裁選に勝利し、戦後生まれとして初の内閣総理大臣に就任した。当初から平和主義憲法の改正に意欲的で、軍事的にアメリカに依存する日本をある程度独立させたいとの意向を強調した。

2016年、陸上自衛隊朝霞駐屯地で行われた自衛隊観閲式に出席した安倍首相  Photo: REUTERS/Kim Kyung-Hoon


そうした憲法改正を目指す安倍の動きは、20世紀の日本の軍国主義の犠牲者である中国と韓国を怒らせた。彼はまた、第二次世界大戦中に日本軍が、韓国や中国をはじめアジアの女性を強制的に性奴隷にしたことを否定。歴史の教科書も、日本の戦時中の記述について「修正」を施したものに変更した。

しかし、首相就任から1年も経たないうちに、安倍は内閣のスキャンダルに悩まされ、政界とメディアから見限られた。2007年9月、体調不良を理由に突然の辞任。第1次安倍政権は短命で終わった。

トランプのご機嫌取りで得たもの


再び首相の座に返り咲いたのは2012年。この時すでに安倍は前回の失敗から教訓を学んでいたようだ。

第2次安倍政権ではまず、低迷する経済の立て直しに注力し、日本を「失われた20年」から脱却させようとした。経済に狙いを定めたことで、「安倍首相がより現実的で柔軟になったことがわかりました」と、安倍政権の外交顧問を務めた時期もある慶応大学の細谷雄一教授は言う。

とはいえ、安倍が日本を再び軍事大国化するという悲願を忘れていたわけではない。前述のとおり、2015年には自衛隊が海外で戦闘任務を遂行することを可能にする安全保障関連法案を強行採決。国家安全保障会議を設立し、防衛予算も増額した。

2016年の国政選挙では、政治的惰性と野党に政権は任せられないと考える国民に助けられ、自民党は地滑り的勝利を収めた。それはまた、長く在職できた首相がほとんどいないこの国で、党と官僚をコントロールする安倍の政治的手腕を示すものでもあった。

「安定した経済成長を実現し、国際舞台で重要な政治的役割を果たすためには、日本の政治指導者は一定期間、政権を維持する必要があります」と細谷は言う。

同じ年、アメリカ大統領選でドナルド・トランプが当選すると、安倍は抜け目なくトランプの機嫌を取るためにニューヨークへ駆けつけ、彼の勝利後に最初に会談する世界の指導者となった。その後もゴルフなどを通じて親密な関係を築いた。

トランプ当選後、日本では駐留米軍の経費負担の引き上げが懸念されたが、この安倍のゴマすりによって回避できたと言える。

2017年2月、ドナルド・トランプ大統領のフロリダの別荘「マール・ア・ラーゴ」で和やかに食事する安倍首相夫妻
Photo by Al Drago/The New York Times


日本政治の専門家の評価は…


安倍は国政選挙でさらに2回の圧勝に導いたが、2019年の参議院選では改憲の国会発議に必要な「3分の2」の議席を維持できなかった。さらに一連の利益誘導スキャンダル(森友・加計)、遅々として解消されない男女不平等への失望、コロナ対策への批判、そしてパンデミックに伴う景気悪化が、彼の国家主義的な目標の妨げとなった。

「彼が継承し、やりたいと思って政治家になった基準では、彼の在任期間は失敗でした」と、日本政治の専門家で安倍の伝記も著したトバイアス・ハリスは言う。「彼は憲法を改正しなかったし、武力行使にはまだ多くの制限があります」

ハリスは続ける。

「日本人がよりプライドを持ち、彼の歴史観に共感するようになったという見解もありますが、私はそうではないと思います。何十年も前からあるこれらの問題は、相変わらず論争が続いている。ですから、彼の考え方が人々の心をつかんだとは言えないでしょう。その意味で彼は、自らが望んだ改革を達成できませんでした」

それでも安倍は、首相を退いた後も舞台裏で大きな影響力を及ぼし続けた。ロシアがウクライナに侵攻した直後には、アメリカの核兵器を日本国内に配備する「核シェアリング」を提案して物議を醸した。

また、自民党が7月10日の参院選に向けて選挙戦を展開するなか、安倍の悲願である憲法改正は、その綱領の重要な柱であり続けた。

終戦から75年を迎えた2020年8月の全国戦没者追悼式。安倍は総理大臣式辞において、日本人の犠牲者のみに言及し、「歴史から学ぶ」ことについては触れなかった。

© 2022 The New York Times Company

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