東京の高田馬場駅近くの自宅から、中野にある女学校に電車で通う、数学が苦手な普通の少女でした。期末試験でしたか、困っていたら、前の席の頭のいい子が答案用紙をそっと見せるって言う。カンニングですよ。けれど字が薄くて読めやしない。なんとか三つ四つ写すと、今度は突然、試験中断です。校庭に集まれと。1941年12月8日、真珠湾攻撃の日でした。
ふだん通りに教室の掃除もしましたが、やはり気になります。地球儀を回し、確かめた。大きなアメリカと小さな日本列島を指さし、黙ってしまった。どうして戦争なんて始めちゃったんだろ。勝てっこない。子供の頭にもそんな思いがよぎりました。
やがて気配が変わっていった。教室の学友が疎開で欠けていく。空き家は、焼夷(しょうい)弾が落ちて類焼しないよう壊される。妙な雰囲気の中、連合艦隊司令長官の山本五十六元帥が戦死する。新聞には、真っ黒な喪服の人だかりの写真。ぞーっとしました。何かが終わるんじゃないかって。
44年の春、5年生と4年生が大きな教室に集められた。短期の労働は経験していたんですけど、今度は通年の勤労動員になります、と。決意表明もさせられました。
私たちの班は、東伏見駅(現西東京市)に集合し、2列縦隊でその工場に向かいました。歩調取れ、頭右って感じで、銃を持った衛兵が立つ門をくぐります。講話を聴き、菜っ葉服と呼ばれた綿麻の混紡みたいな制服を配布され、すっかり工員です。〈学ぶこと許さぬ学徒動員にはじめてなつぱふく(、、、、、)といふもの着たり〉(馬場さんの歌集から)
戦争の中核にいる自覚はありましたよ。だって、私たちは、その「中島飛行機」って大きな城のような工場で毎日、戦闘機の部品を作らされたんですから。
からの記事と詳細 ( 数学苦手な普通の女学生、戦闘機工場へ…歌人・馬場あき子さん(93)[戦後76年 刻むつなぐ](読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
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普通の
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